ナチュラルヒストリーとわたし 2008.08.05
著者: 岩槻 邦男 (兵庫県立人と自然の博物館)
第1話 ナチュラルヒストリー、博物学、自然史学
「藤原ナチュラルヒストリー振興財団」にはナチュラルヒストリーというかな文字が名称に含まれる。ナチュラルヒストリーは辞書では博物学と訳される。だからといって、藤原博物学振興財団といえば、受ける印象はずいぶん違ってくる。欧米語と日本語は、無理に対応させても意味がぴったり一致しないことが多いが、これは日本的、あるいはアジア的概念と欧米的概念が多かれ少なかれずれていることによる。言葉は概念である、といわれる。言葉によって、概念に統一がもたらされることもあるが、ごく微細な、しかし無用の行き違いがもたらされることもないわけではない。
中国では博物という言葉は古くから使われていたらしい。晋の張華の撰による『博物志』、さらに宋の李石の撰による『続博物志』などが刊行されていた。張華博物志10巻は奈良時代以前に日本へ渡来していたという記録もある。博物という概念も言葉も、日本でも古くからふつうに理解されていたようである。中国では、自然物は貴重な財産と考えられていたようだから、自然界の事物、現象、人事、歴史などを記録して百科全書的なまとめをしたものが博物誌だった。紀元前にすでに博物誌がつくられていることから、このような財産目録の集成が重んじられたことが理解される。
中国の言葉を借りた日本では、当然博物という言葉は列品陳列という概念を表現する言葉として通用したらしい。しかし、博物学に相当する言葉としては、本草学という言い方の方が優先していた。本草という言葉も、確かめられた記録によると、中国では紀元前1世紀にはすでにあったようであるし、『神農本草経』をもとにした陶弘景の『本草集注』は5世紀末に上梓された。それが日本へ将来されたのがいつかは、確実な証拠はないらしいが、8世紀はじめの養老令では本草を学ぶことが義務づけられている。731年には『新修本草』が筆写されたと記録される。918年には深根輔仁の『本草和名』18巻が完成した。その後も、日本では、博物という言葉よりも、本草、本草学という言葉の方が広く用いられて来た。
本草学が薬学と博物に整理されるのは明治以後のことである。西欧風の近代科学に合わせたということか。ナチュラルヒストリーを博物学と訳したのも明治であるとされる。その流れは、20世紀中葉まで、中等学校の理科が物象と博物だったことに象徴される。物象は自然界における物のかたち、事物のすがたを指し、物理学、化学を含んだ教科だった。それに対して、博物は広くものごとに通じていること、もの識りであることを意味し、動物学、植物学、地学を包含する教科だった。逆にいえば、理科のうち、物理や化学は事物のすがたを自然の法則に従って描き出すことであり、生物学や地学は自然界に見る現象を詳細に記述するものと納得されていたのだった。
ナチュラルヒストリーはカタカナ表記をされる通り欧米語起源の言葉である。言葉としてのナチュラルヒストリーは、1世紀に完成したプリニウスの Historia Naturalis、さらに完成度の高い例としてはビュッホンが18世紀に成し遂げた Histoire naturelleに示される。この言葉の背景としての自然の理解は、アリストテレスの活動に集約されているように、自然界の事物のうちに秩序があることを予測し、さまざまの事物をシステムに従って理解しようと希求したものである。リンネが地球上に生育するすべての動物を記載し、列記しようとした書物の表題は Systema Naturalis、日本語に置き換えれば自然の体系である。体系を求める姿勢はすでに博物誌として万物を記載、列記する方法とは微妙な差を生じていたのである。
自然史という言葉は辞書では博物学に同じ、と片付けられる。同じなら、そんな言葉は必要でなかったはずであるが、わざわざ新しく造語され、それも自然史という表記と自然誌という表記との差に意味を見出すこだわりもある。
20世紀後半になると、DNAをキーワードとする生物学が、生命が示す現象のあれこれを物理・化学現象として仮説検証的に解析し、自然科学の論理で表現できるようになった。こうなると、最先端の研究に取り組む人々にとっては、生物学が物象に対する博物という概念の傘の下にあるというのは耐えられないことだったようである。生物学ではなく、生物科学、生命科学などという表現が新しさを盛ることになった。博物学の研究者も、それなら、中国風の博覧強記の世界を脱して、西欧風のナチュラルヒストリーに忠実に、直訳して自然史にしようというわけである。ついでに、科学の一分野であることを示すために、自然史学と学の一字を付け加えようという考えさえある。ところが、そこでちょっと待て、という声が入る。ヒストリアは歴史と訳され、だから自然「史」だというのは短絡的で、ヒストリアには広く事物を総括する誌という意味が含まれ、だからプリニウスのHistoria Naturalisは自然「誌」と訳すのが慣わしである。この言葉の日本語訳は当然自然誌でなければならないという主張が出てくる。
とはいっても、言葉は生き物で、いつやらほどからどこかに落ち着くものである。自然誌という言葉はあまり隆盛の方向へは進まないで、ナチュラルヒストリーの日本語訳には自然史に落ち着いて来たようである。一方では、博物という教科を学校で学んだ人はほとんどいなくなり、博物という言葉のもっていた万物記相の概念は薄らいで来た。かえって、新しい博物学の理念などという表現も見られたりするようになって来た。もっとも、生物相を記相し、網羅的に列挙するファウナ、フロラの訳としては動物誌、植物誌など、今でも誌が日常的に使われる。
伝統の言葉にこだわったり、新しい言葉に食いついたりするのは、本当は実体にあまり自信がない場合に表出する仕業なのかもしれない。しかし、とりわけ最近のように、言葉だけが先走りして、言葉があればすべてできたような雰囲気に追いやられる時代には、言葉遣いによって当面大損をするような賭けは避けた方がいいに決まっている。大切なのはキャッチコピーに振り回されることなく、実質で正しい方向を向くことである。言葉にとらわれ過ぎて、その言葉に秘められた概念まで見失ってしまう事例も珍しくはない。新しい酒は新しい革袋に収めるのが至当のようである。
藤原ナチュラルヒストリー振興財団も、自然史だ、博物学だと、勝手な解釈に振り回されることなく、自然の事物、多様な生物に真摯に面している科学の振興に貢献できる看板を掲げていることに誇りと安心がもてるということだろう。
第2話 ナチュラルヒストリーを生きる
ちょっと大げさな見出しを付けてみた。自分の生き様として、科学する歓びを味わうというのと同じような表現である。
なぜ自然史を研究テーマに選んだのですか、とはよく聞かれる問である。ひとくちに返事できるほど背景は簡単ではない。生物多様性の科学に興味を持ち、いつまでもその課題の周辺をうろついているのはなぜか、人に読んでもらえるように書いてみたらと勧められ、準備中である。ナチュラルヒストリーとわたしの関係は、そのような文章で紹介できると思っている。なぜ、シダ植物にこだわり続けるのか、と訊ねられることがある。東京大学を定年になる頃までのシダ植物とわたしのつきあい方は『シダ植物の自然史』(1996、東京大学出版会)に詳述した。詳しく書き過ぎたために、シダ植物のことなどにあまり興味のない人にはつきあいきれない本になってしまったかもしれない。
ヨーロッパのいろんな植物学仲間たちに、植物学を専攻するようになったきっかけは何かと訊ねた。たいてい、ビールやワインを飲みながら、打ち解けた雰囲気の時である。ほとんどの場合、子供の頃、お母さん、お姉さん、伯母さんなど(かならず女性であることが妙に一致している点である!)に連れられてピクニックに出た際に、花の微妙な美しさ、草のすがたの繊細な成り立ちなどに感動し、それがきっかけになって勉強し始めた、という答えが返ってきた。もっとも、考えてみると、このような経験は、植物学を専攻した人たちだけのものではないはずである。ヨーロッパの人々の広い自然史志向の底には、そのような学びの経験が流れているのだろうか。
そういえば、ライデン大学でこんな経験をしたことがある。度々訪れるこの大学の植物標本館で、見慣れない初老の人といっしょになり、しばらくためらったあとで名前を名のりあうと、その人は、自分は子供の時から自然史の勉強がしたかったのだが、植物学では飯が食えないだろうと思って医学を専攻し、ライデン大学で医学部の教授をしていた。定年で年金を得られる年齢に達したので、早々に職を辞し、これからは好きな学習を楽しませてもらうのだ、という。たしかに、仲間のうちにも、ずっと自然史に関心をもち続け、本職が一段落して引退してから研究を始めるという例には事欠かない。
もっとも、東京大学(小石川)植物園にいた頃、育成部の職員が時々こぼしていたのを覚えている。植物園に入園する幼稚園児や小学校低学年の団体は、ふつうお母さんつきである。ところが、昼の休みでも、お母さんがたはお仲間とのおしゃべりが忙しく、子供が傍へ寄って来ても、あっちヘ行って木登りでもして遊んでいらっしゃい、と追い払うそうである。ちなみに、木登りは危険だからということもあって禁じられている。お母さんが子供といっしょに植物を詳しく観察している光景になどであったことがない、とぼやく。
脱線してしまった。わたしは奥丹波の生まれ、育ちである。成人してからは結構健康だが、幼時は病弱だったので、元気だった2歳上の兄のわんぱく仲間には加えてもらえず、母親っ子で育った。田舎だったから、山草採り、蛍狩り、行水、月見、雪投げなど、四季折々にのどかな田園生活を過ごして来た。わたしが育った家から、母の実家までは、わたしの子供の頃のいい方ではちょうど1里(=4km)だった。ある時、母に連れられて母の実家に向かったことがあった。実家のすぐ近くに、萱刈坂という小さい峠があるのだが、そこへ着いた時、母が時計を見て、ちょうど1時間だった、早く歩けるようになったね、と話した。だから、学齢前の年頃だったに違いない。その時、ゆっくりと峠の路傍でキイチゴを摘んで食べた。キイチゴは何種かあった。そのうちで、黄色い実のイチゴを、これが一番おいしい、と教えてくれ、それだけを集めて食べたものだった。その種がナガバモミジイチゴであったことは、植物学を専攻するようになってから知ったことである。ついでに、これはモミジイチゴの関西型で変種のランクで区別されているが、和名はともかく学名では、関西型が命名上は基準変種であることも。
ツクシ摘みの想い出もその頃のことである。笊いっぱいに摘んだツクシを持ち帰って、坊主(=胞子嚢穂)と袴(=輪葉)をとって茎だけにし、母に甘辛く煮てもらうと、小皿いっぱいの量になってしまう。あるとき、ツクシを摘んでいた堤に立つ電信柱を見上げて、こんな大きなツクシがあったらツクシ摘みは楽にできるのに、といったことがあった。それから何年か、大学で田川基二先生の植物分類学の講義を聴いていたら、中生代のツクシは電信柱よりもっと大きかった!もうなくなってしまった京都大学植物学教室の講義室にいて、わたしの頭の中には忽然と奥丹波のツクシ摘みの堤が浮かび出し、そこには蘆木が林立していたのだった。
だから自然史を専攻したのだと強弁する気はない。わたしが自然史にたどりつくまでには紆余曲折があって、簡単に語り尽くせることではない。しかし、それにしても、背景にはこのような奥丹波の里地里山の風景が展開する。都会のコンクリートジャングルの中から自然史の研究者がうまれてもちっとも不思議ではないが、わたしの場合はこのような幼時体験が自然史に向かう過程にかかわっていたに違いないのである。
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当財団は、ナチュラルヒストリーの研究の振興に寄与することを目的に、1980年に設立され、2012年に公益財団法人に移行しました。財団の基金は故藤原基男氏が遺贈された浄財に基づいています。氏は生前、活発に企業活動を営みながら、自然界における生物の営みにも多大の関心をもち続け、ナチュラルヒストリーに関する学術研究の振興を通じて社会に貢献することを期待されました。設立以後の本財団は、一貫して、高等学校における実験を通じての学習を支援し、また、ナチュラルヒストリーの学術研究に助成を続けてきました。2024年3月までに、学術研究助成883件、高等学校への助成127件を実施しました。