変な生き物探し 2010.02.01
著者: 太田 次郎 (お茶の水大学名誉教授/元学長 江戸川大学名誉教授/元学長)
生物学の研究室では、変な生き物たちが幅をきかせている。ショウジョウバエ、アフリカツメガエル、C.エレガンスと通称されている線虫、植物ではシロイヌナズナなどである。いずれも、研究者により大事に飼育あるいは栽培され、様々な変種もつくられている。
ショウジョウバエ(正確にはキイロショウジョウバエ)は、今から約100年前、当時米国コロンビア大学の発生学者であったモーガンが、ある学会で別の目的で飼育されたのを見て、これが遺伝学の研究材料として最適と判断して飼育したのが生物学への最初の登場であった。もし、モーガンの炯眼がなかったら、今でも酒蔵や果物に集まる小さなハエとしか扱われないかもしれない。
生物学者は、自身の研究目的に適合した材料を常に求めている。しかし、良い材料を見つけるのは容易ではない。また、見つけたと思ってもそれを実験、研究に使えるように培養・飼育することも容易ではない。もう数十年前になるが、面白い話があった。ある研究者が、南米で珍しい植物を見つけた。種子が発芽し、開花・結実するまで、数日間しかかからない種類である。実験の効率化という点で理想的と判断して、種子を持ち帰った。ところが、この種子が発芽しない。結実してから、発芽まで一年近く休眠するらしい。これでは材料として利点が少なく、生活史の一時期だけが早いに過ぎない。このように、研究に適した材料を探すのは、困難が多い。
もう一つは、野外の生物を実験室で飼育・培養する困難さである。ショウジョウバエなどは、簡単で大量に飼育できる利点がある。しかし、他の生物では、かび(菌類)や細菌に汚染されがちである。実は、筆者は40年以上の研究生活を、粘菌という一つの生物と共に過ごした。粘菌というのは、森や林の中で見つかり、胞子のうは形や色が様々である。かつて、紀州の奇人で大学者でもあった南方熊楠がこれを研究したのは有名であり、昭和天皇も那須で研究されたといわれている。この胞子が発芽し、やがて変形体という不定形のものができる。大きさは条件にもよるが、畳一畳分に広がることもあり、種類により色も形も様々である。森の落葉や朽ち木の上で多くの場合黄色っぽく、ねばねばした状態である。粘菌の名もこのねばねばに由来している。ところで、この変形体内では原形質が激しく流動していて、顕微鏡で見ると、カエルのみずかきの血流を見る感じである。しかし、粘菌の変形体に特徴的なのは、一定時間一方向に流れると短時間停止し、ついで逆方向に流れる往復運動を示すことである。この原形質流動はわが国の研究者が中心に解析され、筋収縮と類似した機構であることが明らかにされている。すなわちアクチンとミオシンの相互作用がもとで、エネルギー源はATPである。
ところでこの粘菌の変形体は培養が容易ではなかった。野外から採集してきても、まずあまりふやすことはできない。ところが、アメリカ原産のフィザルム・ポリセファルムという種類は、湿ったペーパータオルや濾紙の上で、オートミールを餌にしてふやすことができる。
しかし、この方法もこれまで安定せず、かび(他の菌類)がふえて、変形体があまりふえなかったりする。かつては、朝研究室に行くと、培養している粘菌のその日のご機嫌伺いが常であった。ところが、1960年代になり米国ウィスコンシン大学で、変形体の純粋培養に成功したとの報があった。早速研究室をあげて追試にかかり、様々な困難を越えて、年末に培養することができた。予想とは全く違って、純粋培養の変形体は直径100μmくらいの粒で、それを個体の培地へ置くと、互いに融合して樹枝状の変形体になる。この方法が確立してから材料の心配はなくなり、研究は一段と進んだ。実は、成功がわかったのは大晦日であったのを今でもよく覚えている。ところで、培養や飼育の研究は困難になりつつある。というのは、野外からの生物を実験室で育てるには大変な労力と時間がかかる。しかも、成功率はあまり高くない。現在の状況でこんなテーマを卒論や大学院の学生に与えることは不可能である。もし失敗したら彼らの努力に報いることができない。まさか失敗の経過を論文にするわけにはいかないとして、おそらく大学の研究室ではそのような研究を敬遠しがちと思われる。したがって、野外で珍しい種類の生物を見つけても、それを実験系に組み込むことは容易ではない。しかし、そのような地味で夢多い研究が将来の生物学にとって重要なことは、数多くの事例が示している。ナチュラルヒストリーの分野の人々にも、そのような生物の発見と、飼育・培養に力を注いでもらうように切望している。そして藤原ナチュラルヒストリー振興財団がこのような地味な研究に役立つことを願っている。
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